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オンライン家庭教師です。

漱石記念館

今回は、アビ先生をお誘いして。

南千住で、待ち合わせ。

トレードマークの

黒のTシャツ。

はぃ。

ナガノさん。

アビ先生が?にこやかに現れました。

最初のお目当ては、回向院です。

関東大震災や、東京大空襲の無数の霊が眠っています。

ネズミ小僧

桜田門の関鉄之助

226の磯辺浅一

変わったところでは、プロレスのカールゴッチもいました。

ここ南千住は、奥の細道出発の地。

芭蕉も私達を、見送ってくれています。

次の目的は、都電荒川線です。

昔懐かしいアーケードの商店街を抜けると、三ノ輪駅です。

都電に乗るのを楽しみにしていたアビ先生は、座ったりしません。

電車の最後尾に陣取って、写真撮影です。

早稲田までは、約一時間の快適な旅です。

信じられますか?

一時間で、たった170円。

都電に最敬礼です。

早稲田大学の構内を横切って、側道の坂道をだらだらと下ると、漱石記念館に到着です。

11時を過ぎていたので、カフェと軽い食事を楽しみにしていました。

何と、今日は平日でクローズです。

Oh my god !

気を取り直して、漱石の書斎に入りました。

早稲田周辺は、昭和20年の空襲で全部焼けてしまい、書斎も、復元したものです。

でも、あのチタンの小机で執筆に励む漱石の姿が、見えたような気がしました。

今回の訪問で、強く感じたことがあります。

吾輩は猫である)や(坊っちゃん)を書いた頃の漱石と、後期の漱石は別人なのです。

1910年、43歳の時に修善寺の大患が起こりました。

漱石は療養に行っていた修善寺で、大量の吐血をします。

数日間、意識不明の重体でした。

命をとりとめた漱石は、1年半の休筆をへて、

(彼岸過ぎまで)

の連載を開始します。

この作品が、二度生まれ(生まれ変わった)した漱石のスタートラインです。

漱石朝日新聞との契約は、一年に一本の新聞長編小説(約3ヶ月)を書くことです。

1年半の休筆中も、かなりの額の月給と、夏冬のボーナスが漱石には、支払われていました。

それは、漱石にかなりの重圧になりました。

この上は、書き続けなければなりませんでした。

どんなに体調が優れなくても、読者が待っている限り、言葉を紡ぎ出さなければなりません。

晩年の随筆(硝子戸の中)にこんなことが書かれています。

私は、

具合はいかがですか?

と聞かれると、

病気は、まだ継続中です。

と、答えるようにしている。

と言うのです。

継続中と言うのは、病気と闘い続けていると同時に、読者と闘っていると言う事です。

彼岸過ぎまで

行人

こころ

道草

明暗

修善寺の大患から5年。

年一作のペースで書き続けられた、作品群です。

本当の意味で、血を吐きながら、命を削った作品が並びます。

これらの作品を書く時、漱石の傍らには、

孤独

死への思い

お金の恐さ

悪の魅力

女性のしたたかさ

男性のいくじなさ

が強く感じられます。

人間とは、そもそも

何ものぞ?

泣いたり、怒ったり、嫉妬したり。

そんな愚かな事を続ける人間とは何ものぞ。

漱石は、問いだけかあって、答えのないこの難問にいどみ続けたのです。

売店で、木曜会の面々がプリントされたTシャツが売られていました。

3000円に尻込みして、買いそびれましたが、ちょっと後悔しています。

それにしても、何故にあんなに高名な文化人が、毎週、漱石山房に集ったのでしょうか?

漱石のどんな言葉が教え子達を癒したのか、知りたくなりました。

近いうちにまた、来ようと思います。

遅い昼は、早稲田のお店で取りました。

ホタテフライとお刺身で、ジャスト1000円。

得した気分で、味も最高です。

アビ先生は、まだまだこの近辺を散策したいようです。

私は、一足先に家路に着くことにします。

サヨウナラ。

夏目漱石