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オンライン家庭教師です。

我孫子にて

ちょうど100年前、世界中でスペイン風邪が大流行しました。

まさに、今の終息の見えないコロナウイルスのようです。

日本でも、四十万人の死者がでました。

あの芥川龍之介も、感染したようです。

志賀直哉は、この時の事を、流行感冒という短編小説にしました。

舞台は、直哉が住んでいた我孫子です。

そこで、今日は千葉県の我孫子にやって来ました。

白樺文学館の近くには、暗夜航路の執筆に使われた部屋が残っています。

志賀直哉は、大正5年(1916年)に我孫子に移り住みます。

先に我孫子に住んでいた、柳宗悦を頼ってやって来ました。

直ぐに、武者小路実篤夫妻がやって来て、この地に文学サロンが生まれます。

直哉は大正12年(1923年)まで、我孫子の住人になります。

この8年間は、直哉にとって激動の30代でした。

最初の子供、里子を生後65日で亡くします。

父親との不和がその原因の一つでしたが、義母達の取りなしもあり、父との心の調和が生まれます。

その過程は、小説和解に、詳しく描かれます。

あらゆる手を尽くしますが、命を助けることが出来なかった娘の里子への思いが、静かに語られます。

流れた時間と、常に心を砕いてくれた、祖母。義母。叔父。妹達の一途な想いが和解を生み出します。

この人達の献身によって、無理なく和解に向かっていく、順吉の心の有り様が、簡潔な筆致で綴られます。

自分の気持ちに嘘をつかずに、拘りが溶けていく描写は、直哉にしか書けません。

何故なら、作り物でないからです。

自然に沸き上がった感情を、飾らない言葉で文章にしています。

あの芥川龍之介が、憧れ続けたのが志賀直哉です。

芥川龍之介は、アドバイスを求めて、我孫子に直哉を訪ねます。

日常の生活を、無理なく小説に昇華する直哉。

古典や事件に題材を求め、苦悩する芥川龍之。

芥川龍之介には、直哉は神様のように見えました。

2年でも3年でも、書きたいものが書けるまで、冬眠しなさい。

直哉は芥川にこんなアドバイスします。

しかし、芥川は、僕は、そんなご身分じゃない。

と、素直に受け入れることが出来ません。

立場の違いは致し方ないと言うことかも、知れません。

芥川は、当時の直哉は気楽な境遇だと思っていたようです。

しかし、この当時の直哉は大変な状態でした。

娘、里子の死。

父親との不和。

数年前に、鉄道事故で、頭と背骨に大怪我。

妻の康子は情緒不安定で、転地療養の日々。

我孫子の地は、直哉復活のための、雌伏の時間でした。

豊かな自然と、心許せる友に恵まれ、直哉の筆は生気を取り戻します。

和解を始め、数々の名作がこの我孫子の地で書かれます。

城の崎にて

赤西蠣大

小僧の神様

暗夜航路の連載が始まったのも、この地です。

我孫子の地こそ、志賀直哉の原点と言えるのです。

一方の芥川龍之介は、約10年の後、35歳で自ら人生の幕を引いてしまいます。

強さと弱さ。

二人の人生を分けたのは、何だったのでしょうか?