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オンライン家庭教師です。

象徴天皇

大元帥から、象徴天皇へ。戦前と戦後でその在り方が大きく変わった昭和天皇

そして、象徴として生きられた平成天皇

今回は、昭和天皇と平成天皇における象徴とは何かにについて、考えてみましょう。

ポツダム宣言を受諾して、終戦を決断した昭和天皇は、自らの身柄をマッカーサーに預けました。

日本の統治に天皇の存在は欠かせない、と感じたマッカーサーは、天皇に日本全国の行幸

を勧めます。

国民は、初めて見る背広姿の天皇のお姿を、

狐につままれたような心持ちで見ていました。

行幸が重ねられるにつれて、国民一人一人に優しく語りかけられる天皇のお姿は、日本国民の心の拠り所になっていきます。

やじろべえの支点の部分。日本国民のへそが、昭和天皇なのです。

昭和天皇はこの行幸を通し、大きな自信を得ました。いく先々で数万の国民が、昭和天皇歓喜で迎えます。

折も折、東京裁判が結審し、東条英機以外七名が絞首刑になりました。

当然のように、昭和天皇の戦争責任論が浮上します。

昭和天皇は、退位すべき。)

と言う世論が盛り上がったのです。

退位賛成が、20%に達しました。

しかし、昭和天皇には行幸で得た強い自信がありました。

(国民とともに、日本国の再建に尽力したい。)

と言うお言葉を述べられ、退位論は、聞かれなくなりました。

昭和天皇が象徴天皇として、成し遂げた大きな成果があります。

世界各国との友好親善の推進です。

ヨーロッパ各国を回られ、親善を深めます。

アメリカではこんなスピーチをなさいました。

(私は、多年貴国訪問を念願しておりました。

私が深く悲しみとするあの戦争の直後、

貴国が我が国の再建のために、

暖かい好意と援助の手を差しのべられたことに、貴国民に直接、感謝の言葉を述べるため、

私は参りました。)

このスピーチは、アメリカ国民に受け入れられました。

はじめの訪問地では、硬い表情だったアメリカの国民も、笑顔で日本の天皇を歓迎しました。

中国、韓国との親善にも、力を尽くしました。

昭和天皇にとって無念だった出来事が二つあります。

一つは、A級戦犯靖国神社合祀です。

1978年当時の靖国神社宮司が、A級戦犯を勝手に靖国神社に合祀しました。

昭和天皇はそれ以来、一度も参拝なさりません。

強い抗議の意思を示されたのてす。

こんな唄を詠んでいます。

(この年の

  この日にもまた

       靖国

 みやしろのことに

  うれいはふかし)

二つ目は、

1987に初めて沖縄で開かれた国民体育大会

に、出席出来なかったことです。

高齢である上に、体調を崩され、出席は叶いませんでした。

昭和天皇は、どんなにか沖縄の地に立ち、沖縄県民と共に、平和の祈りを捧げたかったことでしょう。

昭和天皇はこの二年後

に、お亡くなりになります。

平成天皇の象徴としてのお仕事は、

祈りです。

1972年、沖縄は本土復帰を果たします。

しかし、ほとんどの米軍基地はそのまま残ります。ベトナムへは、毎日米軍の爆撃機が飛び立っています。

そんな中、皇太子殿下(現、上皇陛下)は沖縄海洋博覧会出席のため、沖縄へと向かいます。

しかし、沖縄国民には複雑な感情がありまた。

20万人の犠牲を出したあの戦争の記憶は、簡単には消えません。

平成天皇ひめゆりの塔に参拝した時、地元の青年が、火炎瓶が投げつけました。

現場は大混乱になりますが、

平成天皇はすぐ現場に戻られます。

美智子様は、

(大丈夫でしか?お怪我は、ありませんか?)

と、周囲の人々にお声をかけられます。

その姿は、沖縄県民の硬い心を少しずつ溶かしていきました。

皇太子様は、沖縄県民にメッセージを送ります。

(沖縄において払われた尊い犠牲は、一時の行為や、言葉によって購えるものではありません。

人々が長い年月をかけてこれを記憶し、一人一人が深く内省し、

この地に心を寄せ続けていく事が肝要なのです。)

このメッセージは、沖縄に思いを寄せ続ける、皇太子殿下にしか書けません。

火炎瓶を投げた青年の心にも思いを至らせ、沖縄県民の本当の苦しみに寄り添おうとしたお言葉です。

その後、皇太子殿下は平成天皇となられ、美智子様と一緒に祈りのたびを続けます。

太平洋戦争の激戦地だったサイパン

東日本大震災の被災地

広島土砂災害の現地

そして、昭和天皇が行けなかった沖縄訪問は十回を数えます。

東日本大震災の被災地では、床に座り、同じ目線で語りかけるお姿が、話題になりました。

(国民と同じ目線で祈る。)

それが、日本の象徴天皇のお姿です。