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オンライン家庭教師です。

東京裁判に思うこと

死刑になった7人。

陸軍軍人6人。

文民1人。

海軍軍人からは、1人もいません。

総理大臣の継承が広田弘毅は、近衛文麿の自殺により、文民から1人入れられた、言われています。

近衛が死刑になれば、広田弘毅は、絞首刑を免れたかも知れません。

ではなぜ、近衛文麿は収監される前に自殺を図ったのか?

五摂家筆頭のブライドが、許さなかった?

もちろん、それもあるでしょう。

しかし、それだけでは無いようです。

近衛は、見事に勘違をいしていたのです。

(戦後再建に自分の力が欠かせない。憲法改正をやり遂げて、戦後政治の中核に座る。)

近衛には、そんな思いがあったのです。

しかし、時の幣原喜重郎内閣は、近衛の憲法改正草案を歯牙にもかけません。

頼みのマッカーサーも近衛を見限っていました。

そして、そればかりではありませんでした。

A級戦犯リストに

近衛文麿

の名前があったのです。

近衛は、戦前の自分の

政治的失敗を自覚していました。

しかし、吉田茂と、反東条内閣を掲げて、終戦工作に取り組んだことで、免罪符を手にいれたと思ったのです。

自ら、マッカーサーを訪ね、憲法改正草案の作成を約束します。

あまりに、はしゃぎすぎた行動に、世間はそっぽを向きました。

近衛が、自分の置かれた立場に気がついた時は、四面楚歌だったのです。

しかし、もし東京裁判に出廷したとしても、絞首刑は免れなかったことでしょう。

近衛は東京裁判で、自己の正当性を主張しても、アメリカも、日本の世論も味方にならない事を知りました。自殺が、残された最後の道だったのでしょう。

一方の吉田茂は、この

反東条の終戦工作で投獄された事で、A級戦犯リストから外されます。

その後、東久邇宮内閣、幣原喜重郎内閣の外務大臣を努めます。

さらには、あれよあれよと言う間に、総理大臣に就任し、戦後復興の立役者となります。

7年に及ぶ吉田時代は、戦後の日本の原型を作りました。

吉田の基本的な考えは、

軽武装、経済重視

です。

簡単に言うと、

安全保障はアメリカに頼り、経済復興を最優先する。

と、言うものです。

吉田の思惑通り、日本は経済成長を遂げまた。

しかし、日米安全保障条約がなければ、自国を守れない、かたわな国になってしまいました。

憲法九条を改正するには、三分の二の勢力の結集が必要です。

吉田茂の残してくれた宿題は、超難問のようです。

近衛とは逆に、静かに絞首刑を受け入れたのが、広田弘毅です。

226事件後の、騒然とする世相の中、近衛文麿は自信がないと、総理大臣就任を拒否します。

軍人内閣を危惧した吉田茂の説得で、広田弘毅は総理大臣を引き受けます。

しかし陸軍は、広田の盟友の吉田茂外務大臣就任すら潰します。

さらに陸軍は、軍部大臣現役武官制も認めさせ、倒閣のカードを手にします。

515事件や、226事件による要人の暗殺は、時の政治指導者の大きな恐怖です。

広田弘毅は、一介の外務大臣上がりの総理で、何の政治的後ろ楯もありません。

軍人はやりたい放題を始めます。

陸軍は、大陸進出。

海軍は、南方進出。

さらに、軍事予算の大幅増額。

これを

国策の基準

と言います。

広田内閣は、戦時体制一色になります。

東京裁判で、広田弘毅は反証台に立たず、黙って、絞首刑を受け入れます。

近衛がいない今、絞首刑を覚悟したのか?

自分の不甲斐なさは、絞首刑に値すると考えたのか?

広田に聞いてみたい気がします。

東条英機は、判決が

絞首刑

であることを始めから自覚していました。

収監される前に、自殺を試みましたが、何故か失敗しました。

今考えても、東条英機と言う人物は、戦争指導者としては、最悪です。

一国の命運を左右する総理大臣としては、あまりにも小粒な人物でした。

(飛行機は、高射砲で落とすのではない、気力で落とすのだ。)

(戦争は、負けたと思った時が負けなんだ。必ず、神風が吹く。)

公の場で、こんなことを公言していました。

全てが精神論で解決出来ると、信じることの出来ると人物でした。

状況判断や政治的駆け引きは必要ない。

精神一到何事かならざらん。

東条英機とは、そんな人でした。

しかし、東京裁判での東条英機は、一味違いました。軍官僚としての鋭い一面を覗かせたのです。

アメリカのキーナン首席検事と互角以上に渡り合い、堂々と

日本の国家弁護

展開したのです。

日本は、アメリカの誘導により、太平洋戦争に引き込まれた。日本が望んだ戦争ではない。

その最たるものが

ABCD包囲網であり、

ハルノート

だと言うのです。

自分の絞首刑を受け入れた東条英機には、怖いものはありませんでした。

カミソリ東条の面目躍如です。

最後に、昭和天皇

戦争責任

を考えなければなりません。

何故なら、昭和天皇には、明確に戦争責任があったからです。

開戦の証書に、自分の意思で署名しています。

嫌々か、進んでかは分かりません。

時代の空気に逆らえなかったことも、事実でしょう。

しかし、大人の判断です。国を背負った判断です。

戦勝国では、

アメリカがと言うより、マッカーサーが日本統治に昭和天皇は欠かせない。起訴はしないと言う立場をとります。

それに対し、オーストラリアやソ連は、昭和天皇の起訴を強硬に主張します。

日本統治の全権はアメリカにあります。紆余曲折がありましたが、昭和天皇の起訴は見送られました。

昭和天皇は、人間宣言をし、沖縄を除く日本全県を行幸します。

不思議なことに、何処に行っても日本人からは、昭和天皇の戦争責任を問う声は、殆どあがりませんでした。

涙を流し、歓迎の旗をふる人々で溢れたのです。

今、皇統の継承が大きな課題になっています。

戦前と戦後を生き抜いた昭和天皇のお姿を見て、思うことがあります。

一人の人間として、時代の荒波に立ち向かい、迷いながら、信念を貫ける人が、天皇として存在出来ると言うことです。

私は、戦後の昭和天皇の生きざまを見て、東京裁判での不起訴は正しかったと感じています。

日本人には、天皇が必要なようです。

しかし、誰でも良いわけでは無い。

この問題の結論は、永遠の課題のようです。