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オンライン家庭教師です。

織田信長って何者

信長を5つの視点で切ってみましょう。どんな信長像が浮かび上がるか楽しみです。

5つの視点はこれです。

桶狭間の戦い

②美濃平定戦

③上洛

石山本願寺との和睦

本能寺の変

まず、①の桶狭間の戦いから見ていきましょう。

信長は弟の織田信勝の反乱を退け、殺害します。そうして、やっと尾張一国を私中にしたばかりです。

駿河遠江三河を支配する今川義元は、信長にとって、雲の上の存在です。

猫ににらまれたネズミ

のび太ジャイアン

でも、信長には

助けてくれる

ドラえもんはいません。

では、

何故、信長は、

ジャイアントキリング

を起こすことができたのか?歴史を学ぶ醍醐味です。

突然降りだした激しい雨。

あまりの戦力差に、今川義元の心に僅かな油断。

5騎の小姓のみで、熱田神宮に向かった信長。

死を覚悟して、後を追った二千の信長兵。

一心不乱にねらうは、

  今川義元の首一つ。

遠征疲れで、

  眠り込む今川兵。

差し入れの酒に

    酔う今川兵も。

激しい雨を避けて、

 木陰に隠れる今川兵。

鬼神と化した信長は、脇目も振らず、今川軍本隊に襲いかかります。逃げ惑う今川義元

その瞬間、織田家臣、毛利良勝の一撃が、今川義元の息の根を止める事になるのです。

今川義元に、慢心と油断は無かったか?

何故、天は織田信長に味方したのか?

②美濃平定戦

斉藤道三の娘、帰蝶が信長の嫁になるのは、尾張と美濃の架け橋です。

はっきり言えば、

人質

と言えます。

信長の父、織田信秀

何度も美濃に攻め込みます。美濃の斉藤道三も、したたかです。何度攻めても、稲葉山城はびくともしません。

しかし、斉藤道三は

息子、斉藤義龍に殺されてしまいます。戦国時代には良くあることのようです。

斉藤道三の死から10年。

美濃は、道三の孫、斉藤龍興の時代になります。

しかし斉藤龍興は、部下の竹中半兵衛に、稲葉山城を乗っ取らる失態を演じます。

そこで、信長の命を受けた羽柴秀吉は、調略を仕掛けます。稲葉一鉄をはじめとする、美濃三人衆を信長方に寝返らせます。

信長はこの機会を逃しません。道三の怨念を背負って、美濃へと攻め込みます。

稲葉山城はあっけなく、織田軍の手に落ちました。

こうして、織田信長

尾張、美濃を制する

戦国の大大名の仲間入りをするのです。

信長と道三には、有名なエピソードがあります。

道三は娘婿、信長の人物を確かめようと、美濃へ向かう信長を観察します。

馬上の信長は、着流しに、腰に荒縄を巻き付け、チョンマゲも結っていません。

しかし、従える供回りは槍500丁、鉄砲500丁の整然とした大部隊です。

さらに、正徳寺の会見場に現れたら信長は、裃を着けた盛装です。

感じ入った道三は、信長に自分の果たせなかった天下統一の夢を託すようになります。

③信長上洛す。

美濃を制した信長は、将軍の弟の足利義昭を従えて、上洛を果たします。

畿内の三好や六角勢を蹴散らしました。

電光石火の早業です。

では、なぜいとも簡単に上洛が果たせたのか?

そこには、足利義昭の持つ、将軍家の権威がありました。

足利義昭は、

腐っても鯛

だったのです。

将軍の権威によって、正当性を保たれた織田信長に、対抗できる勢力はありませんでした。

信長は、各地の大名に上洛を促します。

もちろん、信長の命ではなく、将軍、足利義昭の命としてです。

上洛しない者は、将軍の命に背いたとして、征伐するのです。

最後まで、この信長の命に従わなかったのが、

越前の朝倉義景です。

朝倉義景は、

尾張の新参者

織田信長

頭を下げることは、出来ませんでした。

そこで、信長は越前の朝倉義景を攻めます。

しかし、信長は義理の弟の浅井長政の裏切りに会い、逆に絶体絶命の窮地に陥ります。

部下の機転により、やっと危機を脱した信長は、一気に浅井、朝倉を滅ぼします。

その間隙をぬって、甲斐の武田信玄が、上洛の兵を挙げます。

武田信玄は上洛の途上、三方原で、信長の盟友、徳川家康の軍を一蹴します。

信長に最大の危機が迫りました。

しかし、天は、信長に味方します。

武田信玄が突然の病で、命を落とすのです。

信長は、命拾いしました。

信玄無き後、息子の武田勝頼は、長篠で復讐戦を挑みます。

しかし、三千丁の鉄砲を備えた織田、徳川連合軍に返り討ちに遭います。

こうして、残された

信長の強敵は、

石山本願寺

となります。

石山本願寺との和睦

武田信玄の上洛を阻んだことで、信長の眼前の敵は、石山本願寺一向宗のみとなります。

しかし、ここで、中国地方の大大名の毛利氏が、足利義昭を庇護することで、信長の敵となります。

毛利水軍が、船で石山本願寺に食料や武器を運び込みます。

石山本願寺の僧兵は息を吹き替えします。

信長軍は、命を顧みず

南無阿弥陀仏

と、念仏を唱えて突進する本願寺信徒に手を焼きます。

そこで、信長は毛利からの食料搬入を阻止しようと、鉄鋼船を製造します。

さすがの毛利水軍も、この鉄鋼船には、手も足も出ません。毛利水軍はもろくも、退却します。

食料の搬入を絶たれた石山本願寺は、万策尽きて、織田軍と和睦を結ぶことになるのです。

本願寺宗主、顕如は、

10年に及ぶ織田信長との戦いに敗れ、大阪の地を後にしました。

本能寺の変

1582年、2月、信長は、甲州征伐で武田勝頼を滅ぼします。

こうして、

信長は

尾張、美濃、越前、近江甲斐、信濃

をその手に納め、天下に立とうとしていました。

信長は、豊臣秀吉からの出陣要請で、中国地方に向かいます。途中、京都の本能寺に宿をとりました。

同じ時、明智光秀は、信長から中国地方出陣を命ぜられていました。

光秀は、領国の丹波亀山を出ると、何故か、その兵を京都に向かわせます。

意を決した光秀は、

敵は、本能寺にあり。

と言う有名な言葉を発します。

そうです。

本能寺には、信長がいたのです。

光秀は、一万二千の兵で本能寺を取り囲みます。

信長にとっては、

  多勢に無勢です。

もはや逃れられないと悟った信長は、屋敷に火をかけさせます。

信長は、炎に包まれて、その49年の生涯を閉じることになるのです。

この本能寺の変に輪をかけて、深刻な事態

が、極近くの二条御所で起きていました。

信長の跡取り、織田信忠が光秀の手の者に襲われ、自刃したのです。

信忠さえ無事であれば、織田家は安泰であったろうにと、悔やまれます。

明智光秀は、信長と信忠の二人を同時に殺害できる、千載一遇の機会をねらっていたのでしょうか?

様々に取りざたされる

本能寺の変

ですが、

光秀には、事前の計画性が感じられません。

もし、光秀が信長襲撃を計画してたのであれば、盟友の細川藤孝筒井順慶に、根回ししていたはすです。

信長殺害後の天下取りの密談が必要です。

しかし、そのような形跡は、全くありませんでした。

ふたりとも、静観かを決め込みます。

魔が差した。

一瞬の閃きにかけた。

強い、強い怨念がそうさせた。

そんなところが、動機ではないでしょうか。

この時代の侍は、いつでも死を身近に抱えています。

右か左かの決断は、常に命がけなのです。

明智光秀の決断も、その時点で、最善のもののだったと、思いたいものです。

織田信長の生涯を見てました。

生涯と言っても、

桶狭間が、27歳。

本能寺が49歳です。

たった22年の半生です。

逆に、この22年の間に、これだけの戦いをし、本能寺までその命があったことの方が、奇跡と言えるでしょう。

太平洋戦争時の将軍の様に、命令だけして、安全な後方で控えているわけではありません。

常に先頭に立ち、戦場を駆け回ったのです。血を浴びて戦い続けたのです。

そんな信長を

良いとか、悪いとか

評価することは出来ません。

一つだけ言えることは、

戦国時代を終わらせるには、織田信長は、欠かすことの出来ない人物だったのです。