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オンライン家庭教師です。

四面楚歌

楚の国の項羽が周りを敵(漢軍)に囲まれ、漢軍の兵が歌う楚の歌を聞き、絶望しました。

そんな故事から、

四面楚歌

という言葉が、生まれたようです。

言い換えると、

絶体絶命

万事休す

でしょうか。

項羽は、この戦いで命を落とすことになります。

28歳の若さです。

垓下の戦いといいます。

後の世に、項羽のような四面楚歌の状態を、切り抜けた英雄が、二人います。

日本の織田信長と、プロイセンのフリードリッヒ大王です。

二人の物語をご紹介しましょう。

織田信長は1568年、足利義昭を奉じて、上洛を果たします。

近江の六角、京都の三好を都から追いやった織田信長は、一気に越前の朝倉義景を攻めます。

そこで、信長は義理の弟(妹、お市の夫)、浅井長政の、思いがけない裏切りに合います。

朝倉義景浅井長政が敵になりました。

さらに、大阪の本願寺顕如が、反信長ののろしを挙げます。

影で糸を引いていたのは、信長と盟友関係にあったはずの、足利義昭です。

上洛後、信長と義昭の思いはすれ違い、最悪の関係になっていました。

そして、足利義昭は最後の一手を打ち、信長包囲網の輪を閉じました。

武田信玄の上洛を引き出したのです。

これで、信長は、袋のネズミです。

まさに、四面楚歌です。

さすがの信長も、この時は敗けを覚悟したようです。

しかし、天は信長を見放しませんでした。

信長包囲網の一角が崩れたのです。

武田信玄が急死しました。

戦国最強の武田軍団は、なす統べなく、帰国の途につきました。

東の驚異が消えた信長の動きは、電光石火の速さです。

一気に、朝倉義景浅井長政を滅ぼします。

足利義昭は、信長の敵ではありませんでした。

あっという間に、京都から追われます。

十五代続いた、足利幕府の滅亡です。

武田信玄の急死が、織田信長の天下取りの隠し味と言うことで。

人生悲喜交々ですね。

つぎは、ヨーロッパのお話です。

世界史では、

七年戦争

として、習います。

信長の時代から、

約200年。

1756年が、七年戦争が起こります。

オーストリアの女帝、マリアテレジアは、オーストリア継承戦争に破れてしまいます。

その結果、プロイセンに工業地域のシュレジエンを奪われてしまいます。

敵は、プロイセンのフリードリッヒ大王です。

マリアテレジアは、すぐに反撃を試みます。

作戦は、こうです。

プロイセンの周りの国と同盟を結んで、フリードリッヒ大王を孤立させます。

こうして結ばれたのが、ペチコート同盟です。

オーストリアの女帝、

マリアテレジア。

ロシアの女帝、

エリザベータ

フランスのルイ15世

愛娼、ポンパドール夫人

女傑三人に囲まれ、攻められたフリードリッヒ大王運命は、風前の灯火です。

何せ、敵は、当時の超大国、ロシアとフランスとオーストリアです。

さすがの、フリードリッヒ大王も、自殺を考えました。

しかし、またここで、奇跡が起こります。

ロシアのエリザベータが急死したのです。

ロシアの女帝、エリザベータの後継者ピョートル3世は、大のフリードリッヒ大王の信奉者でした。

フリードリッヒ大王が大好きなピョートル3世は、さっさと同盟を抜けてしまいます。

これで、フリードリッヒ大王は、息を吹き替えし、この戦いに勝利しました。

こうして、プロイセンは、シュレジュエンを守り通しました。

ロシアの女帝エリザベータの死が、歴史を変えてしまいました。

歴史は時々、気まぐれな振る舞いをします。

もし、武田信玄が死ななかったら?

もし、ロシアの女帝、エリザベータが死ななかったら?

日本の歴史は、ヨーロッパな歴史は、どうなっていたんでしょうか?

そんなことを考え、ふと、不思議な気持ちになりました。。