12月8日
12月8日は太平洋戦争が始まった日です。
アメリカでは、7日のようですね。
ジョンレノンが暗殺された日でもあるようです。
連合艦隊指令長官
山本五十六は、
自ら立案した真珠湾攻撃に、全てを賭けていました。
鹿児島の鴨池基地で、真珠湾を想定した爆撃訓練を行いました。
水深の浅い真珠湾(水深15m)では、飛行機から放った魚雷を敵艦に命中させることは、至難の技と言えます。
飛行機が水面すれすれに飛行することで、魚雷の落下距離を短くし、海底に接触せずに、魚雷を敵艦に命中させなければなりません。
そのための訓練が、数ヶ月繰り返されたのです。。
山本は、駐在武官として三度、アメリカに滞在しました。ハーバード大学で学んでいます。
日本人の誰よりも、アメリカの国力の強大さを知っていたのです。
山本は、
米内光政
井上成美
と海軍三羽烏と呼ばれ、日独伊三国軍事同盟に反対しました。
この同盟が、必ずアメリカとの戦争になると恐れたからです。
その連合艦隊指令長官
山本五十六に、
アメリカとの戦争を指揮する命令が下ります。
山本は消耗戦では、アメリカには勝てないことを分かっていました。
短期決戦で真珠湾を完膚なきまでに叩いて、アメリカの反戦機運を盛り上げます。そこで、有利な条件で講話を結ぶことが唯一の勝利の道だと考えました。
しかし、現場で連合艦隊を指揮していた
南雲 忠一
の考えは違っていました。
無傷で日本に帰還する。その上で、日本近海で最終決戦におよぶ。
と言うものです。
これは、日露戦争以来の伝統的な日本海軍の戦略でした。日露戦争の勝利の味を忘れられない将校にとって、山本の先制攻撃の考えは、異端だったのです。
壊滅に追い込みます。
意気上がる参謀達が、姿を見せない空母を求めて、第二次攻撃隊の発艦を求めます。
しかし、艦長の南雲忠一は発艦を認めません。全機帰艦が終わると、回れ右して、帰路に着いたのです。
参謀達の落胆は大きいものでした。
真珠湾の大勝利に湧く祝賀会の席には、沈痛な面持ちの山本の姿が有りました。
山本は、分かっていました。
少なくとも、空母の半数を破壊し、真珠湾の軍事施設に壊滅的な大打撃を与えなければ、アメリカ軍の戦意を砕くことはできない。
山本は、後にこう言っています。
(私は真珠湾で、アメリカと言う、巨大な寝た子を、起こしてしまったのかも知れない。)
山本 五十六と
南雲 忠一
艦隊派で、軍拡を進めたい南雲。
そもそも、個人的に肌の合わない二人の考え方の違いが、大きな齟齬を招いたのです。
では、アメリカ政府は、どう考えていたのでしょう?
そもそも、ハワイの真珠湾に、海軍の基地を据えたのは、日本海軍を意識してのことです。
中国や東南アジアの権益を争うのは、
アメリカと
日本。
なのですから。
ヨーロッパの戦線に首を突っ込んだアメリカは、
日本がロシアに参戦することを嫌いました。
もし、日本が東からロシアを攻めることになると、ロシアは、西から攻めるドイツと日本に挟み撃ちにされます。
さすがのロシアも、長く東西の戦線を支える事は困難です。
もし、ロシアが戦線を離脱すれば、ドイツは西部戦線に、全力を投入することが出来ます。
英米の戦いは、一気に不利になるのです。
そこで、アメリカは
ABCD包囲網による
石油の対日禁輸と言う経済制裁を、日本に仕掛けます。
国内で石油を生産出来ない日本は、一気に戦争継続が難しくなります。
日本の石油の備蓄量は
約2年分。一日一日、備蓄は減るのです。
新しい石油資源の産地を求めて、日本は南方に進出します。
アメリカのねらいは当たったのです。
そんな日本に、
を突き付けます。
日本の経済制裁を解くための、三つの条件が書かれていました。
1 中国と東南アジアから、日本軍を完全撤退する。
2 日独伊三国軍事同盟から即時、脱退する。
3 蒋介石政府を承認する。
陸海軍の軍人だけでなく、絶対開戦反対の立場を貫いていた東郷茂徳 外務大臣でさえ、
この条件は飲めませんでした。日本の無条件降伏に近いものだったからです。
ハルは、そしてルーズベルト大統領は、日本がこの条件を飲めないことを承知の上で、この最後通牒を出したのではないでしょうか?
(近いうちに、日本軍は必ず、アメリカの何処かに攻めてくる。
日本に戦争の口火を切らせて、アメリカ国民の戦意を最高潮に高める。その上で、日本を叩きのめしてやる。)
そんな、ハルとルーズベルトの囁きが、聞こえてきませんか?