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オンライン家庭教師です。

武藤章と蒋介石

盧溝橋事件は日本の関東軍と、中国軍の小競り合いから始まりました。近衛内閣は、すぐに戦線不拡大を宣言しますが、この宣言に異を唱えたのが、陸軍省軍務課長、武藤章です。

武藤は、中国に一撃を加えてから、有利な講和を結ぼうと考えていました。これが対支一撃論です。

日清戦争の一方的な勝利。

ほぼ無抵抗での満州国の建国。

これらの歴史的事実が、日本陸軍の奢りと慢心を生んだのでしょう。日本軍の精鋭部隊を送り込めば、中国は一撃で壊滅出来ると錯覚したのです。

その甘い判断が、日本を第二次上海事変へ、そして日中戦争へと引きずり込んで行きました。その先に待っていたのは、アメリカとの戦争でした。

上海事変の時の中国は、満州事変から6年経ち、大きく変わっていました。西安事件で張学良が蒋介石毛沢東の手を結ばせ、国民党と共産党国共合作が成立していました。強力な抗日戦線が出来上がったのです。

更に、蒋介石はドイツから軍事顧問団を招き、徹底した軍事訓練を行い、最新式の武器を装備していました。上海での戦いは激戦になりました。日本軍にも多大の戦死者が出たのです。

(日独防共協定を結んでいたドイツが、中国のために軍事訓練をしたり、武器を輸出するのも如何かと思われます。)

蒋介石は、軍備の増強だけでなく、さらにもう一枚上手の戦略を編み出します。それは世界的な広報活動です。蒋介石満州事変で満州には軍隊を送りませんでしたが、上海事変では最強部隊を送り込み、徹底抗戦します。上海には、外国人居留地アメリカ、イギリス、フランス等の一般人が暮らす地域)があったのです。日本軍が外国人居留地を爆撃する映像や、日本軍の残虐行為を誇大にアピールする記事なとを欧米各国に配信することで、国際世論を味方につけたのです。

深謀遠慮と言うべきでしょう。後のABCD(アメリカ、イギリス、中国、オランダ)包囲網による、対日石油の禁輸という大きな成果を産み出します。石油の入手が 難しくなった日本は、真珠湾へと向かうのです。

ルーズベルト大統領の支援を受けた蒋介石の妻、宗美齢は、全米を回って抗日演説を行い、アメリカの世論を対日戦争へと導きます。まんまと蒋介石夫妻の戦略にはまった日本は、悪魔に導かれるようにして、泥沼の太平洋戦争へと突入して行くのです。

上海事変後の経過をもう一度、見てみましょう。

かろうじて、上海から中国軍を追っ払った日本軍は、参謀本部の制止も聞かず、南京へと軍を進めます。南京事件です。その時の軍司令官が、東京裁判で絞首刑になった松井岩根です。中国軍の徹底抗戦により、多くの仲間を殺された日本軍は、歯止めを失っています。参謀本部の戦線不拡大の方針は無視され、後追いで追認、新規部隊の派遣と泥沼に足をとられるように、中国大陸の奥地へ、奥地へ入り込んでいく事になります。

アメリカとの和平交渉に臨んだ東条英機は、常套句のように

支那大陸で命を落とした幾万の英霊のためにも、大陸からの撤兵は出来ぬ。)

と、ことごとく和平交渉を拒否します。その結果、誰にも止めることのできない戦争は、日本人三百万人の犠牲者を生むことになったのです。

日中戦争が、日米戦争を生んだとすれば、日中戦の導火線は、盧溝橋事件です。あの時、政府は不拡大方針を取り、現地では、停戦も成立していました。

なぜ(初めの一歩)を踏み出してしまったのか?

酷かも知れませんが、

私は武藤章に聞いてみたい気もします。

なぜ、対支一撃論にこだわったのですか?