夏目漱石の事
夏目漱石。
日本で最も有名な小説家と言っても良いだろう。
我輩は、猫である。
三四郎。
それから。
こころ
明暗
誰もが一度は読んだことがある作品が並ぶ。
漱石の晩年は賑やかだった。住まいである新宿の漱石山房に沢山の弟子たちが集った。明治39年に始まり、大正5年に漱石亡くなるまで約10年。
集まりは、毎週木曜日の午後と決まっており、木曜会と名付けられた。
寺田寅彦。小宮豊一郎。
鈴木三重吉。安部次郎。
内田百聞。安倍能成。
若き日の芥川龍之介。
当時を代表する知識人ばかり。
議論は上下関係等なく、自由闊達。中には漱石の作品に食ってかかる猛者もいたとか。嬉しそうに聞いていた漱石も、弟子たちの作品が気に入らなければ、遠慮会釈なくやっつける。
そんな関係が10年。弟子たちは漱石と同じ時間を共有することを至上の喜びと感じ、漱石山房に足を運んだ。弟子達の歓談をにこやかに聞いている漱石がそこにいる。弟子達ははそれだけで満足して、家路に着いたのである。
しかし、そんな漱石の心の闇は深いものであった。
2年間のイギリスに留学は、壮絶極まる孤独との戦。心が壊れていく漱石は幻聴が聞こえるようになる。下宿先の家主が、自分をスパイし、悪口を言いふらしていると信じ混み、転居を繰り返す。当時の漱石の姿を描写した文書が残っている。
(彼は毎日毎日、部屋に閉じこもっり、真っ暗な中で、泣き暮らしている。)
東京の文部省には、
夏目狂せり。
との電文が届いたと言う。
家庭人としての漱石は、どんな父親だったのだろう。
漱石の次男で随筆家の夏目伸六は、凄まじい子供時代の思い出を遺している。
(その瞬間、私は、突然父の怒号を耳にした。私は父の一撃を割れるように頭にくらって、湿った地面にぶっ倒れた。その私を父は、下駄履きのまま、踏む、蹴る。頭と言わす足と言わす、手にもったステッキを無茶苦茶に振り回して、私の全身にうち下ろした。)
狂人の所業である。現代なら、児童虐待で収監されても、おかしくない。
漱石の家族は、周期的に訪れるこのような発作を恐れ、怯える日々を送らねばならなかった。精神的うつ病の発作と見られる。家族がスパイを使い、自分の動静を探りに来ると言う被害妄想にとらわれる。漱石の行動は見境が無くなるようだ。
明らかに、対極の二人の漱石がいる。
毎週、毎週、漱石山房に集う弟子たちの真ん中ににこやかに座る漱石。
家族に疑惑の目を向け、時には暴力におよび、恐れられた漱石。
このギャップをどう説明したら良いのだろう?
様々なストレスが、漱石の心身を蝕んだ。何度か胃潰瘍の発作に襲われ、周期的にうつ病の症状が見られる。その症状が顕著に現れるのが暴力を振るう漱石の姿なのである。
そんな漱石を何故、弟子達は慕い続けたのか。
文学と言う共通の話題に引かれたこともあろうが、唯一無二のものとして、漱石の人間的魅力が見逃せないだろう。
ストレスに立ち向かう強い精神力と言える。修善寺の大患で、生死をさ迷った後も、次々と大作に取り組んでいる。
身を削るようにして言葉を紡ぎ出す新聞小説執筆の日々。日々の締め切りの中で、読者の興味をつなぎ止めながら、文学的薫りの高い作品を送り出すのは、血の滲む作業だった。このように、命を削って小説を書き続ける日々が漱石の精神を研ぎ澄ましていったのではないか。神に近づいたと言ったら、おこがましいが、弟子たちにとっては、そこに居てくれるだけで良い存在が漱石だったのだ。